宣教への招き(2023.1.22)

1月21日花

宣教への招き 
 「医者よ、自分自身を治せ」と郷里の人々がイエスに要求するとすれば、それは排他的な自己中心の自己愛だ。
それはゴルゴタの丘の上、十字架にかけられたイエスの前を通り過ぎる人々が「おやおや、神の子なら、十字架から降りて自分を救ってみろ」と言ったのと、とてもよく似ている。自分を救えないで何が神の子すべての者の救い主だ?と自分の思ったように自分中心に、自己愛的に「救い」というものを捉えているのである。
晴佐久正英神父は著書『十字を切る』で、救いとは神と人が結ばれていること、あるいは結ばれていると信じること、として次のように言っている。
「よく一言で『救い』と言いますが、実は救いには三種類あります。
『天の救い』、『地の救い』、『人の救い』です。
『天の救い』とは、神が愛によってすべての神の子に与えている、永遠の救いです。これは神の業であり、人間の業によるものではありません。『地の救い』とは、その神の愛を信じ、自らが天の救いにあずかっていることに目覚めて安心と喜びに満たされることです。イエス・キリストがもたらした救いであり、わたしたちの信仰による救いです。『人の救い』とは、一般に『ご利益』と言われているもので、この世でのさまざまな欲求や欲望を満たすものです。神の業のうち、自分に都合のいいところをそう呼びます。この場合、『天の救い』に目覚める救いである『地の救い』こそが真の救いであり、『天の救い』を知らずにこの世の救いを求める『人の救い』は真の救いではありません。」
実にイエス様を十字架に追いやったのはこうした「人の救い」でよしとする人々であった。それだけでよし、とするならば究極的に人間の自己絶対化の罪は、自分のために神も隣人も殺してなきものにする。そうだ、人の思いのとどのつまりは、愛なし他者なし交わりなし神なしの地獄である。それがイエスがわれわれの代わりに十字架で味わった人の罪の報いであり滅びである。われわれの救いのために。
宣教も、人の思いではなく主なる神が主体としてなされる御業なのである。

こどもたちへの小説教(イエスさまはよんでいる)
https://youtu.be/_VZMDztiguk
宣教 「人の思いではなく」
https://youtu.be/O3CaoAVB_PQ