宣教への招き(2023.2.19)

2月19日花②

宣教への招き     
今日の聖書のお話はたとえ話ではないのだけれども、解釈をしていて楽しくなってしまう。まるで夢解きのようではないか。すると当然百人百様それぞれの読み方が可能になる。しかもどれだけ考えても底をつかない、これこそまさに神の恵みの招きの不思議と奇跡、それがイエス・キリストの福音の出来事ということであろう。
今回まず不思議に思ったのはこのあと群衆はどうしたのだろうということ。群衆と弟子たちとイエス様は、このあと、どうしたのだろう。こんな人里はなれたところで、日が暮れ始めたときのことであったという。満腹してしまったあと、それから暗がりの道を5000人が帰ったのだろうか。それとも、その場で寝たのか。野宿だってありうる。たしか、座らせなさい、は原語では宴のように横にならせよ、だ。イエス様のもとで一晩一緒にいたあと、どうなったのだろう。これは今の話か。
しかし5000人はいかにも大勢すぎる。彼らは夢を見ていたのか。私たちも何を聞いているのか。今の世界の話をしているのか。暗闇の只中その中心にイエス様がいて仄かに天の光が宿り、五つのパンと二匹の魚、わずかな命の糧を裂いて弟子たちに次々に渡しては群衆に配らせた。一番驚いたのは弟子たちだろう。なんでこんなに忙しいのだ。目の前に次々に渡されるパン、イエス様の手の動き。いそいそと配る仲間たち。十二弟子だけでなくイエス様の「あなたがたが与えなさい」の声に呼応するみんなが。みるみる全員に行きわたり満腹している群衆。声が上がり、笑顔も戻りそうだ、ベトサイダは直訳「漁師の家」。手持ちの干し魚もずいぶんあったかも。会話も弾み出し元気を取り戻し、しかも余ったものは12籠。このようにすれば、きっと次回も大丈夫だろう。ただの炊き出しではない。暗がりと困窮のなかに、たしかにイエス・キリストがいらっしゃる。なにもないがインマヌエル(=神われらと共にいます)。我らが与える、我らが与えあう。どこかの誰かではなく神さまが自動的にしてくれるのでもない。神は共にいるが、見えないから我らがする。われらが与え、分かち合う。そこに神がわれらと共にいます。神を愛し人を愛するところ、そこに神はいます。そういうことではないのか。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/bld_Upc0hpg
宣教 「インマヌエル」
https://youtu.be/QozSvgP3zjM