宣教への招き(2023.3.12)

3月11日花②

宣教への招き     
「イエスはひとりで祈っておられたとき、」と今日の聖書は始まる。「弟子たちは共にいた」と続くが弟子たちも一緒に祈っていたのかわからない。ただ、主イエスは大事な場面ではいつも祈っている(3:21,5:16,6:12,9:28,11:1,22:41,23:46)。先日の「小島誠志366日」では、「教会の人は救われているために安心しすぎてあまり求めない、祈り求めないところには与えられない」とあった。反省をした。そうだ、本当に求めた時は与えられないことはなかったという満たされた思いが蘇る。
 聖書に戻ると、このときは5000人の共食のすぐあとで、次はイエス変貌の山の記事に挟まれている。弟子と群衆また人類にとって輝ける神の子メシアが眼前に立つ分水嶺である。彼は我々人類にどんな幸福と満足を与えてくれるのか。人間の欲得も罪もまた膨れ上がり絶頂となる。そこで、レントのイエスは祈っている。しかし私ども人間の罪性を深く知って下さり、呆れて見放さず、かえって受け入れて憐れんでくださる、どこまでもインマヌエルの方なのだと思いたい。私どもの罪と人間的な弱みを知り、自ら人の子として兄弟となってくださり日毎の糧を与えたまえと共に天の父に求め、陰府にまで降って人の傍らに立ち愛し救われるインマヌエルのイエス。私どものために十字架にかけられて死んでしまう救い主、神の子である。
私どもは救世主に繁栄を求め満ち足りることを求める。その求めを実現させ我々に貢献するばかりの救世主を求める。しかし、人の子は苦しみを受け、排斥され殺されなければならない。そして三日目に復活するのはこの方のみである。さらに天にあげられ聖霊を遣わし、また来て、世を裁くという。度肝を抜かれるばかりだ。
この救世主メシアの様は詩編103編の神そのものである。だから躓きの石なのだ。人の思いは病の癒し、不死の命と豊かな満足、幸福である。公平な裁き、公義である。しかし神の前に罪びとである我々がどのようにして赦されて立つことがあり得ようか。罪の赦しはすべてを解決して救うもの、それはどのようにして可能か、または不可能か。これを知る人は十字架上にイエスと共にいる。そこに慈しみ深く、憐れみ深い、恵みの、イエス様がいらっしゃる。あなたの救世主である。生きよ。

こどもたちへの小説教(12かいめの3・11)
https://youtu.be/EGf_2vLgjT0
宣教 「救世主、来たれ」
https://youtu.be/w5T60jilyHY