宣教への招き(2023.3.26)

3月25日花③

宣教への招き     
およそ月の半ばに次月の主日礼拝の賛美歌を奏楽者にお知らせするようにしているだが、その際、同様に宣教の「題」も伝えている。本日の「救いと無知」はどうだろう。久しぶりに、失敗した…と思うのである。
受難週の日々、イエス様はエルサレム神殿境内の大庭で民衆に福音を告げ知らせ教えておられた。すると祭司長や律法学者たちがぞろぞろ、民の長老たちも引き連れて近づいてきた。「言ってみろ、なにの権威でこのようなことをしているのか。その権威を誰がお前に与えたのか。」・・・なにか恐ろしい気がしませんか。当時のこの国のトップリーダー、宗教、司法、政治、経済、教育、生活を一手に握り司る国の権力者最高権威が、民衆の一説教者イエスに高圧的に迫っているのです。  
イエス様も負けません。「では、わたしもひとつ尋ねるから、それに答えなさい。」たしかに、その言い方の権威はどこから来てるの?と問いたくもなります。大丈夫?頑張ってイエス様!とわたしたちも心の中で叫んでしまいます。なんというハイレベルの対話、論争でしょう。国王の権威で彼ら宗教指導者も黙らせて首をはねた、あの預言者ヨハネの「洗礼」は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか? つまりこれはイエス様はご自分のことを彼らに問うているのです。十字架で殺されることを覚悟した凄い問いです。・・・彼らは民衆を恐れてこの場を切り抜けようとしてのみ「わからない」と答えたのではない。彼らは知っているのです。ヨハネの洗礼が彼らの信じる天からのものだったことを。イエスの教えが天から来たことを、知っているのに信じない、それが罪なのです。無知だから信じないのではない。今日の詩編54編にありました。神を自分の前に置こうとしない。分かっているのに認めない。無視して、なきものとして、すましている、それが私たちの罪なのです。信じないのは無知だからではありません。自己絶対化と自己欺瞞、それが罪だと知りながらやめられない悔い改めない。われわれが罪人だとはそういうことです。ではわれわれは救われないのだろうか。これもまた、分かっているのに自分の前に置こうとしない。それでよいのか、愛はどこにあるのか。

こどもたちへの小説教(私は必ずあなたと共にいる)
https://youtu.be/ZyqgPkixjA0
宣教 「救いと無知」
https://youtu.be/k9cALPZhsws