宣教への招き(2024.3.24)

3月23日花④

宣教の招き     
18章の解題~イエスは「大祭司の祈り」と呼ばれる荘重な祈りを終えた。一行がゲッセマネの園に入って、ユダによる裏切りの場面となる。だが一隊の兵士と祭司長たち、ファリサイ派の遣わした下役たちに挨拶の接吻で誰がイエスかを知らせることはない。イエスは自ら進み出て、「誰を探しているのか」「ナザレのイエスだ」「わたしである」の対話が二度もある。「わたしである」は、エゴ-エイミーという神顕現の言葉で、黄門様の印籠を見せられた悪人たちよろしく彼らは後ずさりして地に倒れた。~~人は誰かわからずに、しかし誰もが探している、心にある彼を。
イエスだけが逮捕された。他すべての人に身代わりに神の審きを受けるために。
アンナスは11:50で、このままでは国民皆こぞってイエスを信じるようになり、ローマの委任統治の権威も失墜、国民も神殿もローマに滅ぼされてしまう、と言った大祭司カイアファに、彼を過越の子羊として処刑すれば他の皆は救われるではないか、屠ってしまえ、と助言した人物である。ヨハネ福音書ではこの大祭司の庭でペトロの裏切りがあり、並行して、その屋敷の中では大祭司による裁判があった。ペトロは保身のためにうそをつき、夜中の裁判は無論正式ではなく、ろくに調べもしない、うその裁判で、イエスの死刑が決まった。鶏鳴で漆黒の闇が明けていく。
金曜日明け方、過越祭の食事の日。ピラトは祭りの最中ユダヤ人暴動がないように監視のため神殿北側一角にある総督官邸にいた。最後の取り調べ。ユダヤ人は宗教裁判なら民衆蜂起が必至と政治犯にしたい。ローマ支配への反逆、自称ユダヤ人の王の反乱のかどでローマ皇帝、地上の王の名のもとピラトに死刑宣告してほしい。ピラトはイエスに罪を見い出せずユダヤ人の陰謀と見抜くが心は揺れる小舟、その本心は無実、しかしやはり保身のため、お役人として地上の権威のもとでは仕方ないと、またもやうそのピラト判決。地上はうそばかりでイエスは排斥される。
最後までピラトは本心(真理)とうその間で迷っているが、「十字架につけろ」の怒号に押し出されイエスを十字架につけるために彼らに引き渡した。皆うそではなく、真理を心に知っており、捜し求めているのに、そこに来ようとはしない。

こどもたちへの小説教(さいごのいっしゅうかん)
https://youtu.be/zz6Zx1PGdKw
宣教 「誰をさがしているのか」
https://youtu.be/164e3doLcYA