宣教への招き(2024.4.7)

4月3日こぶし

宣教の招き    
 「あなたがたに平和があるように(平安あれ)」
 主イエスの復活の日、男弟子たちは隠れ家にいた。十字架刑に処されたイエスの仲間として訴追されはしないか、ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけ閉じこもっていたという。彼らの心中を察するに、家の戸の鍵だけでなく心の扉の鍵も固く閉ざし、暗がりに固まって頑なに誰も入ってこないように、誰にも会わないように、見つからないようにしていた恐れの闇の中。本当はユダヤ人を恐れているのではない、自分たちはイエスを裏切って逃げ隠れしている。見捨てて主をしに追いやった張本人はわたしたちなのだ、だから本当はもう生きられない。自分を裁き、罪意識のゆえにユダヤ人だけでなくイエスからも逃げている。イエスは死んでしまったのだからそんなはずはないのだが、イエスさえも入ってこないように隠れて拒絶している。神様からも丸見えで、そんなことは無理なのに、神様さえ入ってこないように、隠れて閉じこもり暗がりで怯えているか自己欺瞞を誇っているか。拒絶は不信、不信は絶望、虚無は拒絶。そんな闇のバリヤー、君たちが勝手に作っているだけだよ、とでも言うように「平安あれ」とイエスが来て彼らの真ん中に立った。
 「彼らに息を吹きかけて、聖霊を受けなさい」
 隠れられないよ、神様はあなたがたと共にいるよ。平安あれ。この主の言葉によって、わたしたちが気づくのは、彼らが死人のようになっていたということだ。恐れから、罪意識から、混沌の渦巻く闇に叩き落され死滅の墓穴に閉じ込められ。しかし彼らを選び、愛し共に生きたイエスは、そこに、墓穴から飛び出して復活してきたときのように、ビューッと彼らの真ん中にやってきた。光のようにして立っておられる。そして彼らを死人の中からご自身と共に復活させて、息を吹きかけて再創造だ。神が人を創られたときのように、今イエスがわたしたちに聖霊を吹きかけて、神と人と生きるように、つまりイエスと共に生きる新しい命をさずかった。無から存在へと呼び出され復活の命を。ああ、命とは赦されているということだ。平安と光と秩序の中へと生きよ。あなたも自信をゆるし、解かれて真に生きよ、と復活の主は命じる。あなたはこれを信じるか。受け入れて生きよ。

今週は担当者不在のためVIDEOの公開はお休みです。