宣教への招き(2023.7.2)

7月1日花③

宣教への招き   
詩編22篇は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」というあの十字架上での絶望的な叫びから始まる。しかし、最後まで読んでみれば、この貧しい者=主を畏れ主を尋ね求め心貧しく主に頼る者は宣言する。「わたしの魂は必ず命を得、成し遂げてくださった御業を集会の中で語り伝え、共に賛美する。」つまり彼=イエス様を主は復活させ、そのみ救いの出来事が彼の子孫(イエスを長子とする人々の意)によって来るべき代、民の末にいたるまで語り継がれ、皆も御前に生き、大いなる集会とされ、御国までも、生きて感謝賛美礼拝に導かれる、というのである。まさに主イエスの死よりの復活の福音。主を信じる者たちに主イエスの死よりの復活は完了形であり、自分たちの現在と将来を確信する希望だ。
イエス様の死よりの復活は、主にとって、どんな隔てもない、ということだ。救いと癒しに隔てなし。主の御業はどんな隔ても軽々と超えてすべてのものに及ぶ。
ガリラヤとサマリヤの間には当時、宗教的な大きな隔ての壁を互いに作り歴史的反目があった。その間に十人の重い皮膚病を患う人々が住んでいたのは、そのどちらからも締め出され、手のつけられない死の領域に隔離されていたということであろう。しかしそこに主イエスが、そこを訪れ、そこに御声があった。そこに癒しと救いが訪れた。死の領域と死の支配が主の訪れによって命の支配へと復活した。彼らに救いが来た。しかし十人のうち九人は恩知らずであり、救いに生きることはなかった。全ての者が死よりの復活に与っていながら、命に生きることになった人は一人だった。しかも、彼はイスラエルの人ではなく外国の人、異邦人だった…
ユダヤ教では、イスラエル民族と異邦人は厳格に峻別され、救いはイスラエル民族へ限定的に与えられるとされていた。しかし主イエスのもとに戻って来て神に感謝し、賛美したのはひとり、異邦人だったのだ。詩編22:28には、地の果てまですべての人々が主を認め、御もとに立ち帰り国々の人々が御前にひれ伏しますようにと祈る。この主イエス・キリストの祈りの中で、私たちも死よりの復活という福音に生き、人生を照らし出されて輝き、感謝して、主を崇めて賛美して生きよう。

本日、寺田牧師が体調不良のため、動画はお休みです