宣教への招き(2023.7.30)

7月29日花①

宣教への招き       
今日の聖書の後半はどうだ。「主イエスと共に歩こう、いつまでもどこまでも」と賛美する人間に冷水を浴びせるようなシビアな言葉を当のイエス様からに言われては、ようついて行けん。はじめはそう思った・・しかしこの一行(56、57節)は、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)、そのイエスを先頭に、その道を進んでいく一行(57節)なのである。その一行の中の仲間たちと主イエスとの会話が今日の聖書なのである。そもそも、「飲めや歌えや」の一行ではない。
今、先頭を行かれる主イエスは、今の私たちは、この一行は、どこに向かって、なんのために今を歩いているのだろう。その目的、目標やいかに。それが遠く遥かに見えたならば、案外、これらの言葉も余裕をもって聞き、悟ることができる。
そうだ、主イエスはすべての者の救いのためにその道を行き、私たちは主イエスと共におるために共に歩くのである。イエスと一緒に行く、どこまでも、それが弟子である。随行する、イエスにならい、従って生きる、それが弟子である。弟子は師であるイエスと共におることこそ第一のことなのである。第一のことを第一に、それはどういう人間にとっての第一のことなのか、つまりイエス様との出会いにおいてはあなたは一体何者なのかといつも私たちは問われる。共に歩き出した道すがらまた問われる。大事な場面でまた問われる。これは私たちが生きる限り繰り返し問われることであろう。それはそれで限りない主イエスの永遠の命への招きであり慈しみ深い恵みなのであり、まったく感謝すべきなのである。
マタイ、マルコによる福音書では初めにガリラヤ湖畔での弟子たちの招きの記事があった。イエス「わたしについて来なさい。」弟子たち「すると彼らは網を捨ててすぐに従った。」・・・ この直截さはルカでは言外になされている。今日の聖書もまたルカ版の弟子のまねきである。弟子にとって第一のことを第二以下にはできまい。私たちの生き方は第一のことを第一にすることなのである。主イエスの弟子の道を行こう。神様の御手のうちに。

こどもたちへの小説教(いまでかけよう)
https://youtu.be/_NfYmCZV2x0
宣教 「第一のことを第一に」
https://youtu.be/XbN2XPeBezY