宣教への招き(2023.8.27)

8月26日ケイトウ②

宣教への招き       
詩編92編1節には「賛歌、歌、安息日に」とある。そして2節、「いかに楽しいことでしょう」と。安息日は、安息日の礼拝は、安息日を守る生活は、いかに楽しいことか、というのである。それなのに、今日の福音書の安息日の様子はどうだ。ユダヤ最高議会の議員が主イエスを招いた安息日の、華やかな喜ばしい午餐であるべきはずなのに、どうしちゃったんだよ。と言いたくなるのである。
「人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。」(14:1)、これは6:6以下の安息日の会堂での記述とそっくりである。「そこに一人の人がいて、右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒やされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、(6,7,8節)」、主イエスが御声を発せられた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」・・・彼らは黙っていた。
安息日の戒律は十戒の安息日規定(出エジ20:8~11)を頂点にした、聖書にある数カ所のほか、数多くの口伝律法、更に判例集がある。これらを解釈、適用、管理し、弟子たちに教えるのが律法学者(ラビ、律法の教師)たちである。一般の人々の日常生活を律するこうしたユダヤ法の学派にも厳格派と寛容派があったが、いわゆる厳格派でさえ、以下の言葉が言われていたようである。「安息日にも生きた人間が水のある穴などに落ちた時、道具を用いなければ救い出すことは許される。家畜が落ちた場合は、引き上げてはならない。」
一般論な掟、議論ならともかく、現実に我が子や自分の愛着のある家畜だったらどうするのだ。真っ先に体が動き助け出すだろう。愛だろ愛、どうしちゃったんだ。とイエス様も仰りたいのではないか。偽善者たちよ、正しいと言い張るよりも愛を行え。律法の本意、真実を行え。自分の子らや身内ばかりでなく他人を愛せよ。他者である弱っている者、苦しみの中にある隣人を忘れずに愛せよ(12,13,21節)。正義と愛が交わるように、決まりと愛が一致するところを歩み行きたいものである。

こどもたちへの小説教(雲の中の虹)
https://youtu.be/jzpRMhX3Dms
宣教 「どうしちゃったんだよ」
https://youtu.be/A–LyFUKyt4