宣教への招き(2023.9.3)

9月2日花②

宣教への招き       
本日の詩編31編24節に「信仰ある人」とあった。調べてみると元の言葉はヘブライ語でエメトという。事物、状態の確実性や安全であることをいう。人格的には誠実、真実、忠実ということである。また神のまこと、真実をいう。ギリシャ語のピスティスに相当する。わたしは「信仰ある人」は宗教的な人というよりも人柄が真実で誠実な振る舞いをする人のことだと思う。主は信仰ある人を守る、とある。
さて、14:1以下での安息日のファリサイ派の最高法院議員宅での午餐での主イエスの結語は、愛の実践は自分や身内ばかりに対してでなく、当時、罪人と言われた病気や困難の中にある他者に対しても同様になすべきだ、ということであった。律法的正しさを盾に愛の不作為を常態化しておいて身内は別か、という批判である。
続けて主イエスは、そこに招かれた客が上席ばかりを選ぶのを見て、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と教えられた。これは人の世のことでもあり、神の国でのことでもある。この世の祝宴にも神の国の祝宴にも自分よりもっと高い方がいるであろう。その方があとから来た場合、人は恥をかき、面目のない思いをするのである。いや、神の国では取り返しがつくことであろうか。
一方で、この世の価値観と神の国の価値観は真逆なものである。実は範とすべきは神の国の価値観であって、この世のそれではない。習うべきは神の国の祝宴の仕方だ、というのが12節以降の説話である。いやまさに主イエスがこの世でされたことは神の国の祝宴への招きであろう。この世の通念ではお返しができる人々どおしが招きあって食事をし、お付き合いをするのである。しかし主イエスが招く祝宴はどうだ、誰もこれにお返しすることができない愛の食卓である。十字架の愛への招きの祝宴である。そして今日も復活の主イエスはこれにすべての人を招きたもう。そして教える。同じようにしなさいと。ただただ感謝があるのみである。真実で誠実な感謝はこれに答えるであろう。招きに答えて一歩踏み出すのである。自分が自分の力でそれをするのではない。それも神の愛がそのようにさせるのである。キリストの愛が、人を立ち上がらせ、歩かせるのである。

こどもたちへの小説教(キリストがわけられた)
https://youtu.be/IZjn6k9MQWA
宣教 「あとの者が先になり」
https://youtu.be/PFr4N8zBh74