宣教への招き(2023.10.15)

10月14日花②

宣教の招き     
 神の国が来る、と表題がつけられた今日の聖書は主イエス・キリストの言葉である。主イエスによって「神の国」(20節)は人の子の日(22節)とも言い換えられ、26節以下では、人の子が現れるとき、人の子が現れる日と呼ばれている。また、ノアの時代やロトの時代にあったようなことがそのときにも起こるだろうと言われた。
ノアの故事は、地上に人の悪が増し、人は神の言葉に従わず、心に常に悪いことばかりを思い計っているのを主なる神はご覧になり、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛めた末、これを地上から拭い去ってしまおうと地上に洪水をもたらした。しかし、ノアだけは主なる神の言葉に従って方舟を作り救われた、という話だった。
ロトの故事は、ソドムとゴモラの人々の罪は非常に重い、と訴える叫びが天に届き、神の使いが確かめに派遣された。人々の悪の日常は変わらずに続いていた。そこで、ロトの身内の者たちだけには逃げよと神の言葉が告げられたが、神の言葉のとおりに本当に逃げて助かり救われたのはロトと二人の娘だけで、ソドムとゴモラは天からの火で焼き尽くされ、ロトの妻さえ塩の柱になってしまった。(創18,19)
これらによって、おそらく、人の子が現れる日は審判(裁き)の日であり、人はその所業によって救われあるいは滅びる。人の子が現れる日は、裁きのときであり、ある人には救いの日、ある人には滅びの日なのである。
さて、旧約聖書の人々が信じ主イエスの同時代人が常識としていたことは、世の終わりである終末に、人の子が現れて神の国をもたらす、ということだった。イエスについてきた人々はイエスのエルサレム入城とともにこれが実現すると期待し、弟子たちは終末の間近い到来を待望していた。ファリサイ派の人々は、例によって上から目線で腕を組み事柄の外に立ち、その目で見て、神の国を観察して調べることができると考えていた。主イエスはこのような態度を否定して、神の国は、目に見える形では決して来ない。実に、神の国はあなたがたの間にある。とおっしゃったのである。今日のわたしたちは、ぜひとも必ずこの言葉をわが事として受け取り、滅びではなく救いの幸いに与からなければならない。

こどもたちへの小説教(ゆるされた王さま)
https://youtu.be/aMkO-NcIfRg
宣教「人の子が現れる日に」
https://youtu.be/Ic5wHW_U2L0