宣教への招き(2023.12.17)

12月17日クランツ②

宣教の招き     
今日のマラキ書は旧約聖書最後の御言葉、主イエス・キリスト到来前夜のことである。「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(3:22)と語られた。神なる主が遣わすエリヤとはバプテスマのヨハネだと言われる。3章1節の「使者」とは私はイエス・キリストのことだと思う。
「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」これについては1:6にこうある。「子は父を敬うものだ。しかしわたしが父であるならば私に対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのか、と万軍の主はあなたたちに言われる。」と。父である神、主を大切にしていると言いながら神を神とし主を主としない子らの真実ない有様に、もう神の我慢忍耐の限界は越えた。あなたがたはわが祝福を呪いに変え、裁きを呼び込んだ。見よ、その日が来る、というのである。これは抽象的なことではなくて、実際、神の民イスラエルは高慢になり悪事をもって栄え、先祖の掟を離れ、呪術を行い、偽って誓い、賃金を不正に奪い、寡婦、孤児、寄留者を苦しめ、命と平和のわが契約をあなたがたは汚した、と主なる神は語る。平和と正しさのうちにわたしと共に歩み、罪から立ち帰れ、わたしに立ち帰れ、と預言者は語り続けた。しかし、秒読みは始まった。見よ、審判の日が来る、炉のように燃えさかる恐るべき主の日が来ると今日の御言葉は語り始める。きみたちが喜びの日としている、だがその日に誰が身を支えうるか、というのである。マラキの言葉に信従してヨハネはエリヤのように、主の道をまっすぐにせよ、罪を悔い改めて、主の通る道を備えよ、と呼ばわった。
そして新約聖書が明るい陽の光のように始まる。彼は来た。そして、なんという神の裁きのなさりかただ。神の御子イエスは、真実をもって道を示し、十字架の死をもって裁きとなし、父の心を子に、子の心を父に向け、誠実と信頼をもって低きに降り、父なる神に愛する世と世にある人々を委ねた。なんとクリスマスのみどりごは私どもへの神の裁きと神との和解を一人で済ませておしまいになった。この泥んこの塊から作られた私の罪のため神は御子を与え給うた。なんという救い、福音。

こどもたちへの小説教(ちがう道をとおって)
https://youtu.be/LIcHoVb1Oak
宣教 「王はちいろばと来た」
https://youtu.be/LFt6nGKWt8o