宣教への招き(2024.1.21)

1月20日花①

宣教の招き     
さあ、イエス様の宣教が始まった。三日目に、というのはよくわからないとされているが4節の「わたしの時」と重ね合わせて考えればイエス・キリストの十字架の死よりの復活をイメージさせている。天にいるはずの主が地上の私たちのところに来てくださり、復活が表すすべてが一新される新しさをもって宣教を始められた。
宣教はヨハネによる福音書では、しるしをもって始められた。
それは大きな婚礼の祝宴に来た参加者を清めるための大量の水、いわば大量の清めの水を天来の聖なるぶどう酒に変えて振る舞うというしるしだった。これは、私たち人間の粗末な生活と人生のすべての窮状をこの方イエスの前に差し出して清めて祝福してもらえ。わたしたちのなすわざ、貧しき存在、この世の生活のすべてを、この方に清めて聖化してもらいなさい。というメッセージだと読めるであろう。
カナの婚礼の出来事は初めのしるしだが、ヨハネによる福音書には6つのしるしがあると読める。そして本書の終了間近20章30、31節に、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことをなされたのはあなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とある。つまり、イエスと福音書記者はイエスのなさったしるしによって読む者、聞く者たちがイエスを信じて生きるようになるためだ、と本書の目的を記している。
6つのしるしとは、①カナの婚礼(2章)②役人の息子のいやし(4章) ③ベトザタの池でのいやし(5章) ④五千人の供食(6章) ⑤生まれつきの盲人のいやし(9章) ⑥ラザロを生き返らせる(11章)とされており、この6つが今日の清めのための水がめ6つに相当する。数字の7が完全数であることからこの6つは依然として不完全である。しかし不完全でありながらも完全な存在を指し示しあらわすしるしなのだ。してみると7つめのしるしは何であるか、それがイエスの十字架の死からの復活ということであろう。それさえ事実でありながらも、あくまでも神の子の聖なる臨在をあらわすしるしなのである。 ―― 来て、見なさい、そうすればわかる。

こどもたちへの小説教(カナの婚礼)
https://youtu.be/Ldt-2CYXHJ8
宣教 「はじめのしるし」
https://youtu.be/z9NRmx2Q_1Y