宣教への招き(2023.4.23)

4月22日花①

宣教への招き     
 詩編4編(旧約836頁)は神の憐れみを求めて苦難からの解放を求めるダビデの詩です。エルサレム神殿での礼拝で指揮者による奏楽にのせて歌われた賛歌と1節にあります。わたしたちキリスト者はこの詩編を千年を経てイエス・キリスト様もゴルゴタの丘の十字架の上で苦しみに喘ぎ歌ったものかと想像しています。イエス様はダビデの詩を当然暗記しておられたはずなので、十字架の上の苦痛に意識が遠のく時にも神への信頼の中で神を讃美していたであろうと想像され、その最後の時にもイエス様は十字架の上での苦痛の中で唱えていたと言われているのです。例えば十字架の上で主イエスが叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という絶望の叫びですが、実は神への絶対的な信頼の言葉だと言われています。なぜならこれはイエス様は詩編22編を諳んじ始めたのだ、あるいはその初行を口にしたとみなす前提ですが、この詩編22篇はダビデの苦難と暁の勝利を歌う神信頼の歌であるからです。確かめてみてください。その22節までの前半は、まったく十字架にかけられていたぶられ罵られ嘲られ苦しめられ追い詰められる悲惨なイエス様の様子そのものですが、23節から後半は一転、イエス様が復活されて大集会で生きて語っている感謝の歌なのです。その集会の中に今日私たち自身も数えられていることを自覚しましょう。私たちはみ言葉において復活者の声を聞きます。
さあ同様にイエス様は詩編4篇も諳んじており、この4篇の「わたし」も実は十字架で苦しまれたイエス様が復活されて今、読者に語っている、私たちはそのように読みたいものです。苦難の果てに「わたし」は主に信頼を表明し、私たちに諭しているのです。「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、たしかに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」
私たちはこれを召されて永眠する私たちの確かな希望として受け入れたいと思います。召天時の希望、永眠のときも主イエスの復活の力に支えられ、永遠の目覚めの朝の復活を信じてともに力強く信頼の歩みを進めましょう。勝利の歌を歌いながら。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利は、とげは、どこにあるのか。

こどもたちへの小説教(イエスさまの復活)
https://youtu.be/jmndHhZs1Eo
宣教 「平安、あなただけが」
https://youtu.be/AVxcbhpe4H8