宣教への招き(2023.4.30)

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宣教への招き     
向こう岸の丘で5千人に食べ物に与えたイエスをカファルナウムまで追いかけてきた群衆にイエスは勧めた。「朽ちる食べ物のためでなく永遠の命に至るパンのために働きなさい」。神が「天からのまことのパンを与えて下さる」から、と言った。群衆が「そのパンをいつもください」と求めたのでイエスは答えた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「父のみこころはあなたがたが今このパンを食べて永遠の命を得、終わりの日に復活させることである。」「では、そのために、私たちは何をしたら(どう働いたら)よいでしょうか」と問うと、「神がお遣わしになった者を信じることである」と主イエスは言われた。更にイエスは問う。「あなたがたは、前にも言った通り、わたしを見ているのに、信じないのか。」
~復活のイエスは、見ても信じない弟子たちにどうにかして信じさせようとした。十字架の上で裂かれたその御傷をお示しになって、「あなたの指をこの手に当てて見なさい」と仰ったり、「あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹の傷口に入れなさい」とご自身の裂かれたからだをお示しになったり。ルカによる福音書にもヨハネによる福音書にも共通しているのは一緒に食事をなさることだ。ヨハネ21章では朝食時に「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」エマオのキリストの時も食事の席につき「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった」。それは最後の晩餐の主宰者マスターとしての主イエスの所作しぐさであったから。そして5千人に与えた食事の時も「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配られた。」そうだ、今日も讃美歌56のように、主イエスは命のパンであるご自身を裂き、われらに与えてくださっている。それは命の御言葉のことである。十字架と復活のイエスから命の糧を今日もわたしたちは食し飲んで生きる。主を信じる仕事は今日私たちに永遠の命を与え、終わりの日に、復活させる。死んでも死なないのである。

こどもたちへの小説教(キリストがわけられた)
https://youtu.be/_WTNy9aFU4c
宣教 「命のパン」
https://youtu.be/ll78V47LwN4