宣教への招き(2023.9.24)

9月23日花①

宣教の招き     
15章の放蕩息子とその兄弟のたとえは、それぞれ徴税人や罪人とファリサイ派の人々や律法学者たちに向けられている。前者はイエスの招きを信じてついていく罪人を指しており、後者はイエスを律法破りの罪人の仲間として受け入れず自分たちこそ神の前に正しいとする罪人である。16:14以下は自分を義として神の祝福ゆえに富を得て金持ちになったと勘違いして更に金に執着するファサイ派の人々が今日のイエスのたとえを聞いてあざ笑うので、イエスは彼らに「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかせているが心の中は不正でまみれていることを神はお見通しだ」と痛烈に批判している。今日のたとえは弟子たちにも向けて語り教えているが、その中に、富と神(この世と神の国)との対比を見ると私たちにもわかりやすい。
この世の子ら                  ⇔ 光の子ら
不正にまみれた富(不正な富=この世の富)    ⇔ 真に価値あるもの
小事                      ⇔ 大事
他人のもの                   ⇔ あなたがたのもの
富(マンモン=財産=頼りになるもの=偶像神)  ⇔  神
この世の主人の家                ⇔ 永遠の住まい
 当時の、この世は不正なもの、この世の富は不正なものという考えから、わたしはこのたとえの金持ちの主人もまた不正にまみれていると考える。さてその家の管理人も無駄遣いの不正がバレて懲戒解雇が決定。だが危機に直面し賢く振る舞い、抜け目なく帳簿を粉飾し友を作り、命拾いの道を得る。そこでイエスは言う、「この世の子らは、光の子らより賢く振る舞っている。不正な富で友達を作りなさい。」
 19節以下で金持ちとラザロの話が待っている。我々も不正な世の中でも友を作ることが永遠の家に迎えられることなのだ。友とは「愛する者」の意だ。そしてイエスこそ我々の友となってくださった。不正な世で自分こそ正しいとする人々にとって、一番の不正はイエスである。不正の富は、十字架の赦しの愛だ。イエス様だ。
 福音は、このイエス様を用いて友を作れ、愛に目覚めよ、と語るのではないか。

こどもたちへの小説教(イエスさまがいちばん)
https://youtu.be/R8yDd_x782A
宣教 「友達をつくれ」
https://youtu.be/DQCDutC2_yw