宣教への招き(2023.12.24)

12月24日クランツ③

宣教の招き     
「あなたたちに触れるものは、わたしの瞳に触れる者だ。わたしは彼らに向かって手を上げる。」・・・砂漠地方の人々にとって自分の瞳は何よりも大切であろう。このわたしとて同様、誰かが目の瞳に触れようとするものなら、本能的に手が振り上がり守り防ぐ反射が起こる。いわば瞳はわたしたちの急所である。いちばん大切なものである。ただ、あなたはわたしの瞳、と面と向かって言われているのである。すると、彼の愛を感じる。自分をいとおしく狂おしく自分のものとして愛している、と感じる。かみさまはあなたを瞳のように愛しておられるのである。これは主がバビロンに略奪され囚われになっているご自分の民について語りかけているのだが、その主の民はかつてどういう者だったかというと、申命記32:10にこうある。「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分の瞳のように守られた。そしてこれに応答して詩編17:8の「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください(詩編17:8)」と来る。
これらは直接的には神と神の民の間の決して絶えることのない愛の交わりを言っているのであるが、これをこのわたしへの神の言葉として受け取らないでどうするか。文句なく信仰的には、わたしたちへの愛の言葉、これを受けとって皆さんの心におさめるならば、頼るべき祈りの言葉であり、確かな絆であり、あなたに愛の神が来てくださっているのである。そう、そうゼカリヤ書では続いて、「娘シオンよ、声を上げて喜べ、わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。」神が私たちのただ中に佇む、住む、と言われる。彼が来て私の中に住む、と言われる。いざ、迎えよう。あの夜の羊飼いらと共に、彼らは神の言葉に喜んでベツレヘムへと急ぎ、飼い葉桶に寝かされた主キリストを見つけた。なにもかもが神の言葉の通りで不思議に満たされ喜んだ。ベツレヘムにともった愛の灯をわたしたちも受けとろう。そして合言葉を交わし合おう。主はわが飼い葉桶にお生まれになった、と。

宣教 「瞳のように愛する神」
https://youtu.be/Vd12Zbp_Itw