宣教への招き(2024.2.18)

2月17日花②

宣教の招き     
受難節に入り7本の蝋燭の火を主日毎に消してゆく消灯礼拝(消火礼拝)をいたします。待降節にはアドベントクランツの4本の蝋燭に主日毎1本ずつ蝋燭の火をつけていく燭火礼拝をいたしました。蝋燭の火は言うまでもなくキリストの命の光を表していますね。しかし永遠の命の言葉であるキリストの光が絶え入るわけがありません。消灯礼拝は逆に今の、キリストの命の永遠と真実とを表しているわけです。この神の恵みを感謝して受けとめる受難節となりますよう願っています。
しかしながらこの身に神の恵みを受けとめて終わりということはないでしょう。神の恵みは自ずと感謝の応答を呼び覚まします。キリストの復活日へと私どもを連れゆくこの受難節に、主イエス・キリストの十字架を見上げ、キリスト様が私ども一人一人の罪と咎、憂い、重荷、いや私どものすべてを担ってくださっているという神の恵みを深く覚えて、おのおの新たな気持ちで悔い改め、信仰覚醒をさせていただき、改めて、より意識して、感謝の応答をしていきたいと願うものです。
最近わたしは思うことがあります。礼拝の時の蝋燭の光は最初は着火マンの火なのにやがて点火蝋燭に灯されキリストの礼拝の燭台の火とされます。途中で聖化されているのです。聖餐式のパンも葡萄液も最初は普通の大地の産物である麦と葡萄です。ですが聖餐のご用の時には聖化されています。
火もパンも葡萄液も、私たちの世界の普通のものです。勿論、人の思いや労苦、知恵や技術や歴史など人間的な尊さをもって私どもの目の前に現されたものです。それは五千人の供食の時の少年が差し出した、「わずかなもの」かもしれません。しかしイエス様に差し出された時には、キリスト・イエス様が受けとめて、大きく豊かにして用いてくださるのです。私どもの日常のうちのわずかなもの、私自身を含めたすべてのものをイエス様は聖化してご自身のために用いてくださいます。
あのイエス様の祈りを通して私どものわずかなものをイエス様はご自身のものとして、神さまとみんなのために用いてくださるのです。みんな神さまのもとにあります。イエス様の祈りのもとにあります。私たちは感謝して喜んで生きましょう。

こどもたちへの小説教(あらののゆうわく)
https://youtu.be/FGMAtBRcSVU
宣教 「苦しみとイエス」
https://youtu.be/Il5xr5MNEZQ