宣教への招き(2024.3.17)

3月16日花②

宣教の招き     
「使徒信条」によるとイエスの地上のご生涯は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、たった一言だ。しかしその受苦は非常に長期間だったと言える。いや全生涯を通じて主は「苦しみの人で、病を知っていた(イザヤ53章)」。そして一歩一歩、悲しみの道をきわめていかれた。ヨハネによる福音書によるとそれはいわゆる普通の良いときなど一時もないのであり、あるとしたら弟子たちとの親密な交わりであったり、ベタニアのマリアの家でのくつろぎ程度だった。生涯を通して、自らの使命に向き合い、誘惑を退け常に覚醒し、十字架に死す、というその一点への歩みであった。そして本日の聖書箇所、エルサレムでの祭りに来ていたギリシア人(外国人・異邦人)さえ主イエスにお会いしたいと懇願してきたことによって、ご自身の働きが今やユダヤ人だけのものではなく世界大に波及していると機を悟り、イエスは「人の子が栄光を受けるときが来た」との言葉を発する。しかし、それは弟子たちに、というよりもむしろ自分に言い聞かせるようにだった。激しく語り、揺れ動き心騒ぐ思い、のたうちまわるような苦悶の中で、「このときから救ってください」と叫び、祈り、しかしむしろ信頼する父である神との対話の中で、結びつきを増し、堅くしていきながらイエスも覚悟を決め、決断する。
イエスも、である。わたしたち人間もそうである。それでよい、そうすればよいのではないか。決断の際、心が揺れる、あっちに行き、こっちに行き、帰ってきてはまた行く、を繰り返す。まるで呼吸のように。来る波と引く波のように、さざなみのように。息をひいては出し、吸っては吐き、神の息を吸っては戻し、頂いては返し、神の息の呼吸に合わせて、やがて、完全にあったとき、主とともにある平常心の中で、そのリズムで目を覚ます。目覚める。立ち上がる。復活する。主とともに神の中に生き、神の息の中で、呼吸のリズムに合わせて目を覚ます。決断する。
ゲッセマネの園の祈りを主イエスと共に祈ろう。わたしたちとしては、愛の迫りを感ずる。どちらを選ぶか。滅びか、命か。一人で決めなくてはならない。命へと、光へと、栄光へと、どちらかの道を選び、ゆかなくてはならない。大丈夫。

こどもたちへの小説教(ヨナのおはなし)
https://youtu.be/I2IYAZwvA5g
宣教 「目覚めのときのように」
https://youtu.be/FZunNz1q0Sk