宣教への招き(2022.4.24)

4月23日花

宣教への招き
今日の聖書はもともとのヨハネによる福音書の終結部と言われる。最後のところに本書の目的が記されている通りである。そこには「あなたがたが、イエスは神の子メシアと信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである」とある。すでに1章冒頭から「言は神」とあり、1:12には「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格をお与えになった」とあり、3:16には「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を遣わされたのは世を裁くためでなく、御子によって世が救われるためである」とあった。七つのしるしと共に命の言を与えられたイエス。今や、死者の中から復活し、弟子たちに顕現され、再度に及ぶ派遣命令をして、天に昇ろうとしている。弟子トマスの「わたしの主、わたしの神よ」は最後の到達点としての「告白」、ゴール!であろう。
初めは「来て、見なさい」「そうすれば分かる」(1:46、39)と互いに集まった弟子たちだった。それは見ても見ない、信じない外の人たちとは違う幸いであったが、師であるイエスの十字架の死と復活に及んで、弟子たちさえも、特にトマスの場合に露になったように、見て信じることの限界が明らかになったのである。
「平和があるように」「見ないのに信じる人は幸いである」トマスにもわたしにもインマヌエル、神が共にいます、大丈夫ですよ、安心しなさい。と平和を宣言しながら、あなたが見たいと言っていた手の釘跡をおもむろに見せ、この傷跡は誰がつけたのですか、と平和の裡に復活の主は問われる。復活の主こそが心の扉をこじ開ける。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とダメ押しの招き。トマスは赦しの愛に包まれて、自分の罪のせいでイエス様を十字架につけたことを悟り、魂まるごと打ち砕かれた。何も罰せられない主、裁きでなく、命へと救う救いの主なる神、。そして「私の主、私の神よ」と告白するトマスであった。
最後に、神の子イエスは、聞いて信じることを教えた。「福音」の由縁である。今日の福音、復活の主の言葉はわたしたちに語り響いているの。信じてよいのだ。

今週のこどものための小説教と宣教をYouTubeに公開しています。
こどものための小説教
https://youtu.be/YKrj0ZzipcU
宣教「平和の宣言」
https://youtu.be/eWTmw5rdI5E