宣教への招き(2023.4.9)イースター

4月8日花②
宣教への招き     
 ヨハネによる福音書19章の終わりにおいて、イエスは十字架上で「渇く」、「成し遂げられた」と言って、頭を垂れ息を引き取られた。翌日は過越しの祭りの中の特別な安息日で、神の聖なる過越しに服するために世界中から戻ってきたユダヤ人は厭うべき非聖なる罪穢れのたぐいの始末をいそいそとしていた。そういう中にも神の御業は進む。聖なる安息日の準備は日の沈む前に急いで行われた。イエスの隠れ弟子アリマタヤのヨセフがイエスの遺体引き取り方を申し出て許可され、十字架から遺体を取り降ろし、そこにこれまた隠れ弟子かニコデモ(ヨハネ3章を見よ)も加わって没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ(なんと35kg)ばかり持って来た。そしてユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて亜麻布で包んだ。ゴルゴタの丘近くに新しい墓があり、そこにイエスを納めた。イエスの生涯は終わった・・・
しかし20章1~31節、「もっと偉大なことをあなたがたは見ることになる」(ヨハネ1:50)と言われていたしるしが、これから起こる。以下、日本基督教団出版局『新共同訳新約聖書略解』305頁より。「天と地をつなぐ梯子としてのイエスが顕示される出来事である。すなわち、イエスの復活である。復活とは、十字架につけられたナザレのイエスが神によって死人の中から甦らされたという事件である。それは、いつも、復活の主イエスに出会った人々によって証しされている。つまり、復活の主イエスに出会った者が、父なる神と子なるイエスとの愛の交わりの内に自らも一体化され、派遣され、罪の赦しの福音を宣べ伝えるという事件である。それ以外に復活の証言はない。」~~~ 受難週の朝早く復活の主をリアルに感じてこれを記している。私たちは主イエス・キリストの復活を信じている。これはとてつもなく「やばい」こと、事件だ。私たちはそれぞれ、なにほどか復活の主イエスに出会い、なにほどか罪の赦しを受け取り、愛を知り、促され、生かされ、歩き出し、課題を担い直し、さらに出会いを新たにして。なにも自分ではできない、しないのだけれども、光の方へ向かっている。私たちは復活の主イエスと出会い、感じているこれは事実だ。あえて言う。やばい。これを肯定しよう。自分たちを肯定しよう。

宣教 「キリストの復活」
https://youtu.be/Mm9wJ5xu_dI