宣教への招き(2024.1.28)

1月28日花

宣教の招き     
今日の聖書は、前の20節にイエスは神殿の境内、宝物殿の近くで教えられていたとあり、仮庵祭の最中にエルサレム神殿にいたことになる。ついでその後に、しかし、まだ誰もイエスを捕らえなかった。イエスのときがまだ来ていなかったからである。とあって、福音書記者はイエスに対するユダヤ人、議員たち、ファリサイ派、祭司長たちの殺気を伝えている。捕縛、判決、十字架刑死、イエスの時は間近だ。
カナの婚礼ではじめのしるしをなさったイエスはその後、過越祭に合わせてエルサレムに上り、まず神殿の境内で、よく言われる「宮清め」をなさった。この時「この神殿を壊してみよ、三日で建ててみせる」と神を冒涜する言葉を周知のものとして耳目を集めた。祭りの最中もエルサレムで数々のしるしをなさり多くの人がイエスの名を信じたようである(2章)。その後、しるしをどう受け止めるかで人々の心に波紋が広がる様子がある中、イエスは5章で2回目のエルサレム入城をしている。これも祭りの最中で、安息日に「床を担げ」と命じて病人をいやした。 そのためにユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。彼らが最も大切にしていた安息日を軽んじ、自分を神と等しい者として、冒涜も猛々しいというわけだ。
その後、次の過越祭には五千人の供食というしるしをなさり(6章)人心をつかんだ。今度は殺意丸出しのユダヤ人のリーダーたちのいる仮庵祭の最中、イエスはエルサレムに上り、公然として命の水を与える神の独り子メシアとして宣教した(7章)。そして遂に三度目の過越祭にイエスは十字架につけられ殺される。8章は、その時が差し迫るゆえに、本気で真実を語る。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「わたしはある」という者である。「初めから話しているのに、まだ信じないのか、それでは自分たちの罪の中に死ぬばかりではないか。あなたたちに言うべきこと、非難すべきことがたくさんある」。
そして、ほとんど最後の言葉としてイエスは言う。あなたたちはわたしが十字架に上げられて初めてわかるだろう。その時には、わたしの言葉にとどまり本当に弟子であってくれ。その時初めてわかる、あなたたちは罪の支配から自由である、と。

こどもたちへの小説教(進くんの夢)
https://youtu.be/ivzPjTmsO9w
宣教 「初めてわかった」
https://youtu.be/1BXSQbksY_k