宣教への招き(2024.2.11)

2月10日花①

宣教の招き     
日本基督教団主日聖書日課による今日の主日のハイライトは勿論ヨハネ6:1~15、その今日の福音に焦点があたるように、書簡はフィリピ書4:10~20。旧約聖書は申命記8:1~6、詩編は95:1~11という建付けになっている。詩編と申命記の聖書箇所を要約していくとこうなる。以下、詩編95:7~11に続けて申命記8:2~5。
ヤハウエはわたしたちの主、わたしたちは主の民。わたしたちは主に養われる群れ、御手のうちにある羊。だから今日、主の声に聞き従おう。わたしたちの先祖はあの日、あの時、主を試みた。40年の間、主の道を知ろうとせず、主は怒られた。それで、先祖たちは主の憩いに入れなかった。40年の荒れ野の旅で、主はあなたの心にあることを知ろうとされた。あなたがたが主の言葉を守るかどうか知ろうとされた。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせ、どう思うか。マナを食べさせて、何を思うかを知ろうとされた。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
さあ、これで5000人の供食の舞台は整った。その時も、わたしたちも、時を越えて今日も、わたしたちの心に何があるのか。わたしたちに主の言葉はとどまっているか、わたしたちは主の言葉にとどまっているか。主イエスからマナを与えられて、感謝するかどうか。現臨される命を与えたもう主の前にひざまずいて悔い改めるかどうか、立ち戻るかどうか、主の言葉という糧によって命与えられ生きよと招く。
実際の主の言葉は「この人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と「人々を座らせなさい」「少しも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい」だけである。実に、主イエスの存在こそが生ける神の言葉、生ける糧なのである。ここでも主は弟子たちを試みている。フィリポは、物質的な糧の配慮ばかりが頭にあり、目の目にいらっしゃる神の言葉としてのイエスという生ける糧に気がつかなかった。アンデレは少年の思いと持っているものを何の役にも立たないと切り捨てて、一粒の麦と同様のイエスの思いを素通りした。今日のしるしは、ご自身を与えて多くの者を養い生かしているという十字架と復活のしるしである。

こどもたちへの小説教(はじめよければ)
https://youtu.be/qNsMzEgrvLY
宣教 「役立たずなし」
https://youtu.be/dTZwtgt7xas