宣教への招き(2024.2.25)

2月22日花②

宣教の招き     
ヨハネ9章~10章は第5のしるし、主の譬えによる自己啓示としるしへの反響と続く。先日の第3のしるし、ベトザタで癒やされた男は、安息日論争の末にイエスの期待を裏切った。今日、シロアムで癒やされた男は、目が開け、わたしがそうなのです(エゴーエイミー)と神の名を口にし、安息日論争の中でイエスが誰であるのか逆に明確化されていく。そして一人になった時イエスが近づいて、主よ、信じます、と告白するのである。しかしそれでハッピーエンドではない。主イエスは10章で、その「主」とはご自身、羊のために十字架上で死ぬ羊飼いであると語る。つまり、わたしはあなたがたのために命を捨てて永遠の命を与えると仰せになった。
~わたしたちのために主は十字架につけられ苦しみ死ななければならないのだ~
詩編18:26~35。御言葉がすべてわたしに語られていると感謝して受けとめるとしても30節の「あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし」というような言葉にしばしば興ざめし閉口する。これでは聖書の神は信じられない、とならないか。しかしイエスが無抵抗で敵を愛したことを思い出してほしい。それでこの詩編を今十字架につけられているイエス様が語っているとして次のように置き換えてほしいのだ。これはひとりイエスという方が、十字架上で私たちという罪人である敵軍に囲まれて苛まれ、ただ私たちの人間の罪という敵軍と戦い、すべての人間の罪の結果である滅びに至る苦しみをただひとり身代わりに引き受けて十字架上で戦っているのだと。そして、ついにイエスは大声を上げて息を引き取られた。
けれども今日、イエス・キリストは復活されて語るのである。わたしは主なる父なる神よ、あなたによって敵軍を追い散らし城壁を超えた。神はわたしに力を帯びさせ、道を完全にし、足を鹿のように早くし、高い所に立たせてくださった。そうだ、主はわれらの岩、すべてみもとに身を寄せる人に盾となってくださる。主は命の神、勝利の主である。会衆の皆さん、共に感謝を捧げ、御名をほめ歌おう、と。
この方は神に、遣わされ、世が救われるために世に遣わされた(3:17)シロアム(=遣わされた者)である。この方に洗われて人はまた、シロアムになる。

こどもたちへの小説教(みえないひとのいやし)
https://youtu.be/eW_gyXka1VM
宣教 「シロアムで洗え」
https://youtu.be/-ONjX4xOqSA