今週の説教要旨(2019. 7. 21)

7月21日花

説教題「 只今、礼拝中 」
使徒言行録 20章7~12節

 今日の聖書の一夜の出来事は礼拝の際中のことではないか。そこには礼拝の要素が満載されている。また、われらの人生の旅・全体が礼拝であることを深く思わされる。また、こうも言える。われらの人生と命とは、礼拝の中にあるのである。
ここには、週の初めの日すなわち日曜日が出てくる。日曜日は礼拝の日だ。人生これ礼拝だ、すると実は毎日が日曜日か。 礼拝の中心にパン裂きがある。当時は愛餐の食事をパン裂きと言った。礼典的になる前の聖餐のことであり、主にある愛の交わりの食事=愛餐の中で聖餐を行った。愛餐=聖餐=パン裂き=礼拝なのだ。人生はパン裂きだ。毎日が主にある祝宴、主の記念だ。そしてお話。礼拝には説教がある。人生には必要不可欠。御言葉の糧、霊の糧、この日は話し合いスタイルの説教だったようだ。それは階上の部屋にて。ペンテコステを思い起こす。心を一つにして祈る祈りの部屋。聖霊の満ちる人生の玉手箱。キリストの灯点る人生の原点。しかし話が長い。長すぎる。世界宣教に燃え福音の前進に命を注いで語る説教者パウロだから仕方がないか。そして、やはり青年は眠い。昔から洋の東西を問わずそういうものだ。若者は寝ながら育つ。たぶん良い話なのだ。青年はやはり窓辺が好きだ。腰を掛けて話を聞く。落ちてしまう。人生には落ちることがある。死がある。しかし復活がある。その身に三度身を合わせて起こしてくれる方がいる…。まだ、話は続き、夜中まで食べ、元気をつけて、夜明けが来る。慰めがあり、希望の朝は来る。祝福を受けて派遣の時。旅は続き、出発は間近。人生は続き、礼拝は続く。
私たちの今はどのあたりだろう。私たちの人生は礼拝だ。只今礼拝中だ。神共にあり、愛する友がおり、すべてを与えられて礼拝三昧だ。寝ても覚めても、召されてもまた、当然、礼拝三昧だ。神共にある今は、どこにいても永遠の今だ。