宣教への招き(2021.1.31)

1月31日花

宣教への招き
宣教題「 命に至る言葉 」 
マタイによる福音書 5章17節~20節

 命に至る道があり 滅びに至る道がある。命に至る食物があり 滅びに至る食物がある。命に至る言葉があり 滅びに至る言葉がある。人を生かす言葉がある。命を持つ言葉がある。それが欲しくはないか。
高校2年生の冬、私は「私の救いのためにキリストが死なれたことを信じる」と隣に座っていた福音教会に通う同級生の女子に言ったとき、彼女は感激して喜んだ。彼女は言った。「あなた、もうクリスチャンよ」私は隣でたばこを吸っていた。そのあとどうしただろう。彼女はその後どうしているだろう。彼女はこうも教えてくれた。「モーセの律法はキリストの律法によって廃棄されたからクリスチャンにはキリストの律法があるだけだ。それは愛することだ。」
しかし愛することは難しい。本当に絶望的に困難だ。モーセ律法は613あるらしく、それよりもキリストの律法は1つだよ、と言われて、それは嬉しいと思うが、その1つができなければゼロだ。それで限りなく1に近い人はいるかもしれないがみなゼロなのでなかろうか。キリスト・イエス様だけが1だ。
律法的には義ではなく、愛することもできないけれど、イエス様に従う者たちに語られたのが山上の説教(マタイ5章~)だ。モーセの説教と比される。モーセの語ることもキリストの語ることも「こう生きなさい」という愛の導きだ。モーセ律法は、君たちはああするな。こうするな。それはいけない、と十戒で始まる。イエスの説教は、なんて幸いなんだ君たちはと、8福という祝福で始まる。8福の教えは入り口が広いということでもない。貧しい者、悲しむ者、心優しいために置きざりにされる者、義の欠乏に引き裂かれて泣く者、損をしてでも憐れみ深い者たちよ、幸いだ!天の国は君たちのものだ。そうした困窮の中でインマヌエルを信じる者は神の義も愛も贈り物として受け取る。そこが天の国だ。イエス様と共に行くところ、主に従うところ、主は神の義をくださる。そこからは誰もが愛することができるだろう。

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